白湯

電気ケトルに水道水を注ぎ込んでスイッチを押す。

一分ほどもたたないうちにぶくぶくと音を立てる。なんとなくそれを眺める。人魚姫の最期を連想する。明け方。どこかでカラスが鳴いている。

カチッ。という確信めいた音がお湯が沸いたことを知らせる。私は400円くらいのニトリで買ったコップにそのお湯を注ぐ。そして、そこにポッカレモンを数滴垂らす。

それをリビングに持ち帰ってレターセットの散らかったテーブルの上に置いた。誰に何を書こうしても、何度書いても、納得のいくものが書けなかった。小説を締めくくる最後の一行と、手紙を書き始める最初の一行はおんなじくらいの重みを持っていて、わたしには扱えない代物だ。

白湯を口に運ぶ。レモンの爽やかな風味がお湯の温かさとともに口に広がって、体に流れ落ちる。内側が温まる感覚を感じながら、新しい便箋を広げる。

『お母さんへ

今更手紙をよこすなんて、と思うかもしれないけどあの時のことちゃんと謝りたくて』

ここまで書いてくしゃくしゃに丸めた。頭の中の感情を言葉にするのがとても難しい。整理しても仕切れない。溢れる感情は自分の言語能力を優に超えて頭の中で言葉の洪水を起こした。

声にならない声を上げながらソファにもたれかかる。

「I hate you.」

なんとなく呟くけれど、誰からも返事はない。

 

どこかでカラスが鳴いた。

春が終わることになんとなく、気付いた。

Serenade

突然ですが、恋をしたことはありますか?失恋したことはありますか?眠れない夜が貴女にもありますか?ありますようにと願っています。それはそうとパクチーは好きですか?私は嫌いです。あなたはどうですか?そうですか。毎日同じ手品を見続けたらいつか飽きるように、私はあなたのことも見慣れて飽きてしまうのでしょうか。けれど風船は浮かびます。ヘリウムは減っていきますが。アドバルーンと高架下。残念な思い出を昇華した。もし、春の或る朝、あなたの家のドアに暖かい日差しが降り注ぐなら、そこで目玉焼きを焼いてもいいですか?ところで、目玉焼きには塩胡椒?ソース?醤油?それともなにも付けない派?変わってしまったのはあなた。今しがたお待ちください。メモリの残量が不足しています。

浴槽

水の張っていない浴槽で一人で全裸で体操座りをしながら何かを待っている。4月の夕暮れは暖かくもなく寒くもないが、やはり全裸となると少しだけ寒い。

全くの無音、というわけではなく、安アパートのこの浴室の壁の向こうは隣の部屋のキッチンにあたるスペースがあり、そこから食器をガチャガチャと構う音が虚しく反響する。夕飯の準備だろうか。それ以外は私の心臓の音と、ゆったりとした鼻息。

あなたが浴室に置いてあった青い半透明な歯ブラシをまだ捨てられずにいるのは、あなたがいつか帰ってくると心のどこかで信じているからだろう。

そんなわけはないのに。

葉桜の季節になって、なんとなく色んなことを忘れた。もう、満開の桜がどんなだったかもぼんやりとしか思い出せなくなった。桜の木の下で笑うあなたの横顔はまだ鮮明に覚えているけれど。

冷蔵庫の中身を思い出してみる。確か、賞味期限ギリギリの鶏肉とそれを少し過ぎたカット野菜...卵と納豆、それにほうれん草...どうにかなりそうだ。あなたが好きだった猿の描かれたラベルの瓶ビールもまだそのままだ。

 

 

何か悩み事があるとこうして浴槽に入って体操座りするのは小学校の頃からの癖だった。姉に構ってばっかりで私に興味を持たなかった両親からの逃げ場はお風呂場だった。一人暮らしにはなったけれどあの時と変わらず私はずっと狭いアパートに住んでいる。こうしていると無性に落ち着く。世界に一人だけになったような。私自身が水になってしまったような、そんな気持ちになる。本当にそうなりたかった。

 

ふと、手に目をやる。もう若くない私の手はすっかりしわが増え、ハリとみずみずしさを失っていた。

でも、こんな手をあなたは、「歴史が刻まれているんだね」なんて言って褒めて、撫でてくれた。そのまま手を上にやって、照明で透かして見る。あの光はあなた。

光のささない夜の海を照らす。

あの光の名前はあなた。

 

ガチャンと壁の向こうからお皿が割れる音が聞こえた。

 

ラストシーン

君のお下がりの毛布に包まっていたら夜が明けた。まとまらないままの荷物やままならないままの気持ちが散らかった部屋で私は1人。スマートフォンはじっと息を潜めて、カーテンの隙間から漏れた光に照らされていた。なんとなく悲しくなって放り出したあれこれは結局いつかは自分の手で拾わなければならないことを今になって悟った。

いつかは死ぬことが、なんとなく自分の中で救いになっていた。なんだって変わりゆくものだ。人も街も感情も。造られては壊されて、生まれては死んで、濃くなって褪せる。そんなことの繰り返し。波の満ち引きみたいに。けれど、死ぬことだけは変わらず心のどこか、忘れられた灯台のようにそこにあって、確かに私を照らしていた。

君のことは忘れることにした。君がしたことも許すことにした。君に傷つけられたことだけは今すぐにとは言わないけど、いつかきっと瘡蓋になって剥がれ落ちると思う。

君が置いていった灰皿とその中で横たわってる吸殻もなんとなくずっと捨てられずにいたけどもう捨てることにした。私は飲めなかったけど君がよく飲んでたストロング系のチューハイの潰れた空き缶。君はお酒を飲むとたまに私をぶったけれど、もうそれも遠い昔のことのように思えた。

必然のように出会って、必然のように別れた。

そんなどこにでもあるありきたりな結末に、私はなにを思うのだろう。君はなにを思うのだろう。

 

君が好きだった映画。映画みたいな恋愛。そんな結末とはほど遠い結末。

 

そんなもんだよな。なんて思い直して、なんとなくカーテンを全開にした。

 

すっかり世界は朝になっていて、日差しに照らされた。

これが映画ならラストシーンかな、なんて思って一人で笑って、泣いた。

夜間飛行

手に入らないものばかり数えていたら、夜中の3時になっていた。なんとなくカーテンを開ける。少しずつ明るくなりつつある空と干したまんまの洗濯物が春の夜の冷たい風に凍えているのが見えた。

欲しい物が手に入れた瞬間に欲しかった物になってしまうのとおんなじように、もう二度と手に入らないと思っていた物は案外と簡単に手に入ってしまって、もう、どうでも良くなった。

どうでも良くなった。だなんて、強がりだって分かっているし、失ったらまた涙を流すのだろうけど。

強がりをやめられたら。意地や見栄を捨てることができれば。

なんどもそう思ってここまでやってきたけど、やっぱり意地や見栄の鎧を纏って虚言や含蓄のある言葉の剣を持った人間は強い。脆いけれど一見、強そうに見える。

君の前ではその鎧も剣も捨ててありのままでいたいだけなのに。と、情けなく倒れ込む。

僕が勇者なら君は僧侶なんかじゃなくて、きっと魔王だ。ラスボスだ。

君に向けてその剣を振るうこと、君からの言葉を鎧で防いでしまうこと、今は許して欲しいと思う。

いつか、いつか捨てたいと思っていた借り物の装備はすっかり呪いを持って僕の体に纏わりついている。